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原孝洲からのお知らせ

2017年4月15日

【お節句記事】 5月5日を「端午の節句」とするいわれ

もうすぐ迎える5月5日は、男の子の誕生や成長を祝う端午の節句ですが、もともとは、男の子のお節句ではありませんでした。



○そもそも「端午」とは

「端(たん)」とは、はじめを意味します。そのため、「端午」の解釈には2通りございます。

@毎月初めの午(うま)の日

A午の月の初めの午の日 ※午の月・・・旧暦5月


どちらも端午の行事がのちに5月5日という指定された月日で催されるようになった理由として、「午(ご)」と「五(ご)」の音が同じことから、5月5日になったとされます。



〔端午の節句が男の子のお節句になるまで (※諸説あります。)〕

○はじめは、悪いものを寄せ付けないための行事でした。

古代中国の五行思想では、午の月の最初の午の日に、最も厄災がふりかかり、悪いことが起きると考えられていました。
そのため、厄災がふりかからないように、悪いもの(邪気)が入らないようにと、薬草である菖蒲やヨモギを使って、「人形(ひとがた)」を作り、家に飾りました。また、薬草を門にかけて、悪いものや厄災が家に入れないようにしていました。その風習・行事が日本に伝わったといわれています。


日本では、奈良時代から「端午の節会(せちえ)」という宮廷行事の一つとして、催されておりました。
この行事での菖蒲やヨモギの使い方は、庭に立たせた輿(こし)に盛りつけて飾ったり、軒に葺いたりし、薬玉(くすだま)にして柱に掛けたり、髪飾りにして冠に結んだりしていたようです。
そうして、悪いものが敷地内から出て行くように、外からも侵入しないようにしていました。


また、梅雨に入る時期のため、病気になりやすい月ともされておりましたので、薬玉を飾るのは、病をも払って寿命を長くする縁起物ということからでした。


同じような風習は、農民にもありました。この時期、農民にとっては、田植えを始める時期です。田に入って田植えを始める前段階として、穢れを払う物忌みをする風習がありました。


彼らは、山の神は1年を通して、山から里へ降り、家や田へ移り、また山に帰ると考えておりました。
また、この神は、人間の穢れ(例:出産など)を嫌う存在であると考えていたので、最初に田植えをするのは、若い未婚女性としていました。

彼女たちは、里に降りている神を田にお招きできるように、田植えを開始する前に一定期間、小屋にこもり、穢れを払う物忌みをし、それから、迎え入れた神の前で最初に田植えを始めました。


その風習がやがて、宮廷行事の端午の節会と結びつき、貴族だけでなく農民も、穢れを払うために菖蒲やヨモギを使うようになりました。



○しだいに武芸や武勇を尊ぶ行事になりました。

鎌倉時代頃になると、公家の勢力が衰え、端午の節会も衰退し、今度は武家で端午の行事が催されるようになりました。
武家では、悪いものを払うことよりも、武芸や軍事のほうが重要なので、「菖蒲(しょうぶ)」と「尚武(しょうぶ)」を引っかけて、端午の行事の日を「尚武の日」としました。


この時期は梅雨入り前でしたので、武家では手入れもかねて鎧や兜を飾り、菖蒲の根を浸した菖蒲酒を飲んだり菖蒲を軒に葺いたりしました。



○やがて男の子の誕生と成長を祝う行事になりました。

江戸時代になると、幕府は「尚武の日」を五節句のうちの一つとして定めました。

端午の節句の日、大名や旗本は染帷子(そめかたびら)を着て、お城に出向き、将軍にお祝いを述べました。また、将軍に男児が生まれると、城中に馬印や幟(のぼり)のほか、薙刀などの武具を立てて飾り、盛大にお祝いしました。


この行事をしだいに庶民がまねるようになりました。
ただ、庶民は武士とは身分が異なるので、飾るものは、厚紙で作った兜や、紙や布に描いた武者の姿絵でした。
また、源義経のように、勇ましくて戦績が良い人物を模した人形や将軍に召し抱えられた金太郎のお人形なども、立身出世にあやかって飾るようになりました。


こうして、端午の節句には、男の子の誕生と成長を祝って、鎧兜だけでなく、お人形も飾るようになったのです。




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